逃亡日記。

散歩と映画と本がすきだ。

日記「◇」

2024年5月22日 水曜日 日記「◇」

 市立図書館近くにある古書店。店内はジャズが満ちている。本の山に圧倒されながら、店内を進む。カウンターは本の山。その奥に店主がコーヒー片手に本を読む。こんな絵に描いたような古書店が、こんな地方都市にあるとは思いもしなかった。

 むかし、わたしは古書店にてアルバイトをしていたことがある。だから、世間が思うような古書店は存在しないことを知っている。のんびり、長閑な時間が流れる古書店は、そうそうない。こんなにも出版不況といわれるような時代に、そんな書店は存在しない。大量の本の値付けに追われ、つぎの古本市ではどんなラインナップにするか、頭を悩まし、ライバル店を辛辣に貶す言葉を放つ。というような殺伐とした部分があった。とくに、地方都市の書店は、新刊書店であろうが、経営は厳しい。古本屋はもっと厳しい。だから、こんな暢気な店主のいる古本屋に驚いた。

 店内に入り、すぐ右手にある本棚。ロバート・クーヴァ―(上岡信雄 訳)『ノワール』(作品社)とトマス・ピンチョン(佐藤良明,栩木玲子 訳)『LAヴァイス』(新潮社)の間に見つけた。

 デイヴィッド・ミッチェル(高吉一郎 訳)『ナンバー9ドリーム』(新潮クレスト)である。

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「ハルキ・ムラカミとジョン・レノンへのオマージュに溢れた、疾走する夢幻の物語」との紹介文。裏表紙のコメントには、日本におけるポスト・モダン小説家の代表(?)高橋源一郎の名前。というわけで、購入した。

 イギリス人作家による全編日本を舞台にした小説。溢れ出る日本の固有名詞の数々により生み出された挿話たち。「不思議の国二ッポン」の圧縮小説。それは高橋源一郎の言葉を借りれば「世界の全てを描く」ための最短距離のだ。

 屋久島から「トウキョウ」へ、詠爾は旅に出た。父親を探すため。物語は単純そのもの。しかし、デイヴィッド・ミッチェルが選んだスタイルは、そう単純ではない。

 物語の冒頭。詠爾が父の居所を知っていると思しき人物・加藤明子を喫茶店待ち伏せている。

北通りと青梅街道の交差点を過ぎていく車や人の流れを眺める。都庁職員、唇にピアスをした美容師、昼間の酔っ払い。誰一人としてじっとしていない。川、吹雪、車の流れ、ビット数、世代、一分間につき一千人の顔。屋久島なら一人の顔につき一千分だろう。群衆をまえに物思いにふける俺。この群衆一人ひとりが「お父さん」、「父」、「おやじ」などという名札のはられた記憶箱を持ち歩いているのだ。

 詠爾の躁的な語り。この小説の特徴である。かれの目に飛び込んでくるのは、生まれ育った屋久島の自然からは遠く離れた「トウキョウ」の景色。地方民が都会の情報量に打ちのめされる様。わたしも上京するたびに、そのスピードの速さにやられてしまう。

 身分を偽り、加藤明子のいるビルに潜入する詠爾。

 パン・オプティコンのロビーはハイテクなロボ恐竜の体内のようにがらんとしている。パン・オプティコンという組織全体の描写としてはそう的外れではないだろう。(中略)床の矢印が俺の足を感知し、無人案内所まで誘導してくれる。俺は涼しい顔をしておく。心拍数が上昇すると探知機に察知される可能性がある。俺の背後で自動ドアが閉じるのが聞こえる。真っ暗でまるで地下にいるようだ。探知機が全身を頭の天辺からつま先までスキャンし、俺のIDカードのバーコードを読み取るとビーッと音を立てる。

 SF?いったいどういう展開になっていくのかとこちらは混乱。その後、コンピュータとのやり取りを経て、加藤明子のオフィスに潜入。その姿を見つけるやいなや、銃を突きつける。しかし、「東京一悪質な弁護士」とだけあって、なかなか父親の居場所を吐かない。痺れを切らした詠爾は、銃の引き金を引き、テレビ電話のスクリーンを粉砕する……。いきなりのアクション展開。さらには「バイオロボ」まで登場し、青春小説かと思いながら、読み始めるといつのまにかサイバーパンク小説に変化する。

 海外から見た「ニッポン」描写のパロディのようだと思った。『ニューロマンサー』『ブレードランナー』『ニンジャ・スレイヤー』などの「サイバーパンク・ニッポン」なイメージのパロディ。そこから物語を導入するのは、イギリス人の著者が「ニッポン」という舞台に旅ををはじめる準備体操のようだと感じた。

 そんな急な展開にクラクラしながら読み進めれば、なんとそれは詠爾の妄想だったと判明する。これはさすがに予想外である。そして、第1章は現実と妄想が交互に登場しながら、進行するのである。もちろん、ただ妄想を書きなぐっているわけではなく、これから始まる物語の鍵となるモチーフ(大地震、嵐、ヤクザ、臓器売買などなど)がしっかりと埋め込まれているのである。

 「WEB本の雑誌 今月の新刊採点 2007年4月の課題図書」にある『ナンバー9ドリーム』の書評には、「繰り返される妄想と、夢、あちこち取り散らかしたようなストーリー展開は、やはりもう少し整理されたし」とあるようだが、取り散らかしているように見えて、当たり前だが、しっかりと構成されているのである(取り散らかしているのは、わたしの文章のほうだ……)

 第1章は、現実と妄想が交互に登場するが、第2章は、詠爾の過去(亡くした双子の姉との思い出)と、「トウキョウ」での仕事、上野駅での遺失物保管所での勤務が交互に登場する。このようにして、この小説、章ごとに詠爾の旅と挿話が交互に登場するのである。あるときは、幻想小説が挿入されるし、『トラック野郎』のような展開(実際に日活のトラック野郎について少し言及がある)、挙句の果てには、回天特攻隊の手記まで挿入されるのである(脱線するが、回天特攻隊といえば、野田地図第20回公演『逆鱗』を思い出した)。

 第2章から印象に残ったエピソードを一つ。「写真婦人」。写真を失くしたという老婦人が訪ねてくる。詠爾は、対応するが話がかみ合わない。詠爾に代わって、先輩職員である佐々木さんが対応し、去ってゆく「写真婦人」。

 佐々木さんは机の上を片付け始める。「ここは彼女の日課に組み込まれているんですよ。丁寧に応答しているに越したことないですから。あの人の『写真』、何のことだか見当ついた?」

「家族アルバムかなにかですかね?」

「あたしも最初は文字通りとってしまったんですね」と佐々木さんはいつものようにおっとり、慎重にしゃべる。

「でも、たぶん、自分の記憶のことを言っているじゃないかと思うんですよ」。俺たち二人は彼女の後ろ姿が灼熱の中に消えていくのを見つめる。蝉が鳴いたり鳴きやんだりしている。

  記憶、妄想、物語、夢。これらがカギになる小説である。第8章「山の言葉は雨」に夢について語るトラック運転手が出てくる。

海馬状隆起、だとさ。脳の左側にある記録をその部分まぜこぜにするらしいんだ。(中略)それで、記憶が何もかもでたらめになっているところで、お前の脳みその右側の部分が物語を夢見て、このばらばらになった記憶をつなぎ合わせるんだ。アブラカダブラ。それが夢なんだよ。

 デイヴィッド・ミッチェルの見た夢。「トウキョウ」という世界を作り上げる。著者の想像力によってリミックスされた「ニッポン」。その世界を詠爾という青年が旅をする。その旅路の果て、亡くした姉、心を病んだ母、そして、父親という「過去」に決着をつける。そして、大災害が起こり壊滅した「トウキョウ」に残した恋人のもとへ向かう。その様は描かれない。作中の夢に登場するジョン・レノンは詠爾に言う。

 「九番目の夢の意味はあらゆる意味が死に絶え消滅した後に始まる……」

 誰かの夢を見るのではなく、自分で夢を見なければならない。 

 自らの夢を開放し、読み手に託すラストに心震えた。