今週のお題「懐かしいもの」
齢20いくつにして「懐かしい」という感情が湧くやつのことを信用できない。
わたしは、二十代前半である。いつ頃の記憶が「懐かしい」と感じるのか、いつ頃のものが、「懐かしい」ものなのか。
音楽や玩具やアニメ、そういった類のものに「懐かしい」と言われることがある。たとえば、幼少期に遊んだ玩具、観ていたテレビ番組、聴いていた音楽などだ。
だが、あまりにも現在と幼少期が近いから、懐かしいという感情を湧くことがない。
いまだに、「お母さんといっしょ」は放送中、「名探偵コナン」なんて邦画市場に残る興行成績を叩き出している。
音楽は、いまやサブスクリプションの時代。古い音楽を新しい音楽としてみんな聴いている。シティポップ・ブームも起こってるくらいだ。
(しかし、二十歳そこそこで、「はっぴぃえんど」なんて聴いてるやつとは、わたしは友達になれない)
懐かしいという感情は、その対象との距離が大事だ。時間的距離や物理的距離。
遠く隔たっていたものが、偶然、出会す。この時に「懐かしい」が生まれてくるんじゃないか。
それでは、わたしはなにから遠く隔たってるだろう。
不意打ちされる「懐かしさ」を経験したい。
それはとても気分の良いものなのかもしれない。
2001年の映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』
この映画には、熱烈なファンがいる。公開当時、親に連れられ観に行った世代なんてのは、この映画にかなり衝撃を受けたのではないか。
この映画、大人たちを「懐かしさ」によって捕えることが物語の核だ。
冒頭、ひろしは巨大ヒーローとして怪獣と戦う。みさえは魔法少女に扮する。
子育てをする今では考えられないくらい遠い昔の記憶を刺激する。
まだ、大人に守られていた時。守るべき責任などなかった時。
だから、そのときに戻ることは劇薬なのだ。
ここでの「懐かしさ」は幼児性と繋がる。ひろしもみさえも、いまや手放してしまったものだからこそ、その幼児性に魅了される。なんの責任も義務もない頃。楽しいに決まってる。
「懐かしい」は、そのなんの責任も義務もない時期に思い馳せることなのかもしれない。
齢20代前半のわたしは、まだ幼児性から抜け出せていないから、「懐かしい」という感情を手に入れられないのか。
わたしは、この『大人帝国』を「いい映画」と褒める若者に軽蔑していた。万博も高度経済成長も、なにも経験してこなかったし、プロレスブームも経験しなかったはずなの奴らが、泣いた、良かった、という感想に疑問を持っていた。
しかし、それは彼らが自分の幼児性と向き合えてるから、この映画を褒めることを可能にしているのかもしれない。
わたしはまだ、幼く未熟だ。