逃亡日記。

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『ローズマリーの赤ちゃん』感想

0.言い訳

この文章は、未熟で粗野で頭の悪い学生だったときに書いたものです。今読むと支離滅裂であり、読むに堪えない文章です。そのため、発表することを迷いました。

しかし、映画について、はじめて真剣に向き合って書いたこの文章を、このブログの最初の記事にすることにより、初心を忘れずに書き続けることができると思い発表することにします。

 

1.はじめに

 1960年代から1970年代のアメリカは、いわゆる「古き良き時代」の伝統的価値観が崩壊していった時代だった。1960年代よりカウンターカルチャーと呼ばれる既成の概念の打倒を訴える若者たちの文化が盛り上がりをみせ、そうした若者たちが公民権運動や女性解放運動、ベトナム反戦運動などを牽引した。このような時代の中で、ハリウッド映画は、それまでの「現実逃避の場」から「現実を反映するもの」に変わっていった(木谷,2016,111頁)。 

 キリスト教団体からの要請を受けて制作されたプロダクション・コードは、すでに意味をなさなくなっており、過激な表現を扱えるようになっていた。その結果、反キリスト教的映画も登場してくる。その代表作の一つが『ローズマリーの赤ちゃん』である。

 今回は、『ローズマリーの赤ちゃん』を取り上げ、この映画におけるキリスト教の描写を分析する。この映画は、イエス・キリスト誕生譚を、悪魔の誕生譚として倒錯的に描いている。そして、この映画が製作された60年代は、サリドマイド事件や避妊用ピルに対する恐怖が蔓延した時代である。そうした妊娠・出産にまつわる恐怖も描かれている。しかし、物語の中心にあるテーマは、家父長制的な価値観を持つ人々が、革新的な価値観を持つ女性を、自分たちの価値観に押し込めることを描くことだ。『ローズマリーの赤ちゃん』は、それまでの価値観が変わりつつあった時代の中で、伝統的価値観を持つ人間を悪魔崇拝者として描いた映画なのだ。

 

2.あらすじ

 『ローズマリーの赤ちゃん』は、ガイ・ウッドハウスとその妻ローズマリーの物語である。彼らが、ブラムフォードというニューヨークにあるアパートに引っ越してくる。ガイは、売れない俳優だったが、ライバルだった俳優が突然失明し、狙っていた役を手に入れる。その一方、ローズマリーは、ガイとの子供を持つことを望んでいる。

 二人は隣人の老夫婦であるローマンとミニー・カスタヴェットと親しくなる。老夫婦はなにかと二人のもとを訪ねてきては差し入れを持ってくるようになる。あるとき、ミニーがチョコムースを夕食のデザートにと持ってくる。その夜、ローズマリーは、悪魔にレイプされる夢にうなされてしまう。

 数日後、ローズマリーの妊娠が判明する。しかし、つわりがひどく、辛い日々を過ごす。そのうち彼女は、カスタヴェット夫妻、自分の夫といった周りの人々が自分を陥れようとしているのではないかと疑いを抱く。

 実は、その疑いは当たっており、ガイは、役欲しさに、妻であるローズマリー悪魔崇拝のグループに捧げていた。彼女は悪魔の息子を生まされようとしていたのだ。彼女は、身柄を拘束され、無理やり出産させられる。そして、彼女はその子が悪魔の子と理解しながらも、それを受け入れようとするところで映画は終わる。

 

3.「性革命」と妊娠恐怖

 『ローズマリーの赤ちゃん』が制作された60年代は、出産や妊娠にまつわる社会問題が渦巻いていた時代だった。

 1960年、全米食料薬物協会が4年間の試験期間を経て、経口避妊薬、いわゆるピルを承認した。これにより、いわゆる「性革命」が起こった。女性は性生活を管理でき、出産とセックスを切り離すことができるようになった。しかし、ピルは、まだかなり危険で、場合によっては凝血作用があるとも指摘されていた。

 それに加えて、60年代には、妊娠中の吐き気や悪寒を抑えるために処方されたサリドマイドの副作用によって、世界規模で子供が障害をもって生まれる薬害事件が起こった。妊娠中にサリドマイドを服用した場合、四肢の発育不全を持つ胎児が生まれることが報告されている。

 ローズマリーは、カスタヴェット夫妻から紹介されたサパスティン医師に勧められ、ミニーが薬草を煎じて作った薬を飲み続ける。サパスティン医師は、市販のビタミン剤よりも薬草の方が安全だと諭す。そのとき、当時の観客は、避妊用のピルに対する不安やサリドマイドの薬害事件を想起するだろう。このような当時の情勢を踏まえて、企業の製造した薬よりも自家製の薬草の方が信頼できるだろう、とサパスティン医師やカスタヴェット夫妻は、ローズマリーに迫るのだ。

 また、物語のラストには、自分の生んだ子供は、悪魔の子ではないと否定するローズマリーに対して、「Go look at his hands」「 and his feet」というセリフがある。この時、赤ん坊は映し出されないが、その分、観客の恐怖を煽る効果を上げている。もちろん、物語上は、悪魔の身体的特徴が出ているか確認するようにローズマリーに言っているのである。しかし、この時、観客は、サリドマイドによる副作用によって、四肢の形成が妨げられた奇形を想起したのではないだろうか。

 

3.信頼できない男たち

 『ローズマリーの赤ちゃん』に登場する男性は、ほとんどが信用できる人物ではない。夫のガイは、仕事の成功と引き換えに、ローズマリー悪魔崇拝グループに捧げ、ローマン・カスタベットや医者のサパスティンは、悪魔主義者であり、ローズマリーが最初に受診する産婦人科医は、ローズマリーが必死に助けを求めても、彼女の話を信じない。唯一親身に接してくれるのは、育ての親であるハッチだが、彼は殺されてしまう。男性だけではなく、登場する老婦人は、みな悪魔主義者である。彼女に対して親身に接してくれるのは、彼女と同世代の女性の友人しかいない。

 これらのことは当時のアメリカ社会を反映している。ローズマリーは、家父長制的権威を信じ、頼り切っていた。しかし、当時は徐々に、そうした伝統的価値観が崩壊していき、女性運動が盛り上がりを見せた時代である。

 そのような時代の中で、ローズマリーを伝統的価値観の中に押し込めようとする。それを象徴するように、ローズマリーがショートカットにすると、夫のガイは、彼女の髪型を「that’s the worst mistaken you ever made.」と非難するセリフがある。

 さらに、彼女は妊娠の痛みに苦しんでいた。本編中、彼女は、その痛みに苦しみ続けることになる。この苦しみというのは、家父長制的価値観に対する苦しみの比喩なのだ。彼女は、昏睡状態のなか悪魔にレイプされ、悪魔の子供を妊娠させられるのである。そして、出産した子供を受け入れる。それは、家父長制的権威に対して抵抗するよりも、それを受け入れる方が、比較的平和な対処だと思ったからではないか。女性が声を上げて地位の向上をもとめた時代ではあったが、このような家父長制的な価値観はいまだに現在においても根強く残っている。「女性は子供を産む機械」といった発言もあった。そうしたことが日本の中枢から飛び出すのは驚きである。

 また、女性が被害の声を上げたことに対するバッシングも現在もある。例えば、フリージャーナリストの伊藤詩織氏が、元TBS記者の山口敬之氏による、レイプ被害を訴えた際も、バッシングに晒された。そのようなことなら、沈黙を選ぶという被害者も多い。悪魔主義者に対抗するよりも、受け入れることを選んだローズマリーもその一人ではないか。

 

4.神は死んだか?

 ローズマリーがサパスティン医師の病院の待合室で手に取るTime誌には、「神は死んだか?」と書かれている。これは、実際に発行されたものである。伝統的価値観が崩壊する中での神の立ち位置について論じたものだ。このTime誌の記事は、ハーバート大学の神学者ハーヴィー・コックスの『世俗都市 神学的観点における世俗化と都市化』の影響を受けた記事である。

  この本で、コックスは、この時代における特徴は、「都市文化の勃興と、伝統的宗教の没落」(コックス,1967,13頁)と指摘している。コックスは、都市化を「伝統的な世界観の崩壊から生まれ出て来た、科学ならびに技術上の進歩」(コックス,1967,13頁)により、初めて可能になり、人間が営む生活様式に変化をもたらしたと指摘している。そして、世俗化とは「人々がかつては疑うべからざるものと思っていたそれぞれの神話が、都市生活の営みの中でのコスモポリタン的出会いを通じて、その相対性を露呈される時」(コックス,1967,13頁)に生じたものだと指摘した。

 都市化と共に世俗化は進行し、人々が営んでいる生活をどのように把握し、理解していくかという様式に変化をもたらした。「世界を宗教的ならびに擬似宗教的な自己理解から解放し、すべての閉鎖的な世界観を追放し、すべての超自然的な神話と聖なるシンボルを打破することである」(コックス,1967,14頁)ことに加えて、「人間は世界をその責任として与えられており、したがって、彼が世界にどのように関わるかということ対して、それを運不運とか怨霊のせいにすることはもはやできないのだということを自覚するようになった」(コックス,1967,14頁)のである。つまり世俗化は、これまでの宗教的世界から、宗教性が抜け落ちたということを意味しているのだ。

 ローズマリーは、カトリック系の学校で育ったが、今では、信仰心は失われている。それは、夫のガイも同じである。ガイは、カスタヴェット夫妻の部屋に招かれ、夕食を食べる場面で、ニューヨークにローマ教皇が訪れることに対して、「that’s show biz.」と言い放つ。また、映画が公開される1年前に発表された原作小説では、ローズマリーは自らを「不可知論者」(レヴィン,1986,74頁)と述べていた。

 

5.都市の「匿名性」と「流動性

 ガイとローズマリーが引っ越してきたアパートは、ニューヨークにある。映画のオープニングは、ニューヨークの遠景から始まる。高層ビルなどが立ち並ぶ、まさに都市の風景が写し出される。こうした都市の特徴として、コックスは「匿名性」と「流動性」をあげている。   

 都会に住む人々は、地方に比べてはるかに多い人々との関係を持っている。その中で、交友関係を深めるためには、関係をもっている人々の中から、選択しなければならない。そのため、地方の住民のような都市生活に馴染みがない者にとって、つめたく見えるような生活態度になる。しかし、そのような態度が、都市の住民にとってプライバシーを守るために必要なのだ。それにより「匿名性」が確保できる。

 しかし、ローズマリーの住むアパートは、そのような都市の住民に必要な匿名性はない。隣に住むカスタヴェット夫妻は、過干渉だ。ローズマリーの住む部屋を何度も訪ね、自分たちの知っている産婦人科医に変えるように言い、そして、薬草を煎じたものを飲むように促し、食事の手伝いまでやろうとする。これは迷惑な「隣人愛」として捉えることができる。よきサマリア人のたとえのように、困っている者に寄り添い助けるという精神で、ローズマリーに接しているのだ。それは、都市の住民というよりも、村社会の住民である。コックスは、都会の住民は、「私的なものと、公的なものの間にはっきりとした区別をもちたいと願っている」(コックス,1968,77頁)と指摘している。お互いの「匿名性」を担保することが、都市の住民にとっての「隣人愛」なのである。しかし、それは、ローズマリーの隣人夫妻には無縁である。

 もう一つ、都市の特徴としてコックスがあげているのは、「流動性」である。コックスは、都市の住民を「巨大な電話交換台に加えて、彼はクローバーの葉の型をした巨大なハイウエーのインターセクションにさしかかっている運転手」(コックス,1968,85頁)と例えている。都市には多くの交通路が交差し、都市を結んでいる。そうした中を人々は移動している。これは、都市化以前から「敗残者の武器」として存在していた。そうした流動性によって、伝統的な宗教が失われてしまうことがある。しかし、キリスト教の場合、元々は遊牧民の宗教として生まれた。旧約聖書の神ヤーウェは、特定の空間や時間のどこかに位置付けられているわけではない。そのため、流動性は、そこまで脅威ではないとしている。

 ローズマリーもブラムフォード・アパートに引っ越してくる。しかし、そこは、流動性が無い村社会のような場所だった。物語の冒頭、ニューヨークの街並みが映し出される。高層ビルが立ち並び、地平線まで見通せる開放感がある風景である。しかし、徐々にカメラが左に移動すると、ブラムフォード・アパートが見え、都市の流動性を感じさせるイメージから、閉鎖的なイメージと変化する。アパートの外観は、近代的なビルというよりも、監獄のようなイメージである。

 ガイとローズマリーが、アパート内に入るシーンは、高くそびえ立つ柵があり、アパートの敷地内に入ってもそのイメージは続く。そして、そこの住民は閉鎖的な村社会の住民だった。そして、そのアパートでは、古くから悪魔崇拝が行われており、家父長制的価値観によって支配されていた。最終的にはそうした価値観をローズマリーは受け入れる。映画のラストは、冒頭のシーンと同じようにアパートの外観が繰り返される。その時、冒頭で映し出された近代的なビル群や地平線は映し出されない。そして、アパートの入り口の前には、冒頭のガイとローズマリーと同じ服装の男女が、アパートに入っていくシーンで映画は終わる。円環のような構造を思わせ、そして、牢獄に閉じ込められたような印象をもたらしている。

 

6.科学に対する不信

 また、現代の都市には、コックスが言うように、科学の発展が必要不可欠だった。しかし、当時は、前述したように避妊用ピルやサリドマイド事件などによって、その科学に対して信用できなくなった時代だった。

 デヴィッド・J・スカルは、ローズマリーが信号を無視して、車が行き交う道路を横断するシーンは、「社会やテクノロジーにからめ取られた中で出産することの痛切なメタファー」(スカル,1999年,345頁)と指摘している。それまでの宗教的価値観が失われたことによって、迷信や慣習などが信じられなくなった。しかし、そうした価値観が失われる原因ともなった科学すらも信じられなくなった。そのためローズマリーはノイローゼに陥る。その時にローズマリーに、ローマンが「why don’t you help us out, Rosemary?」と誘う。心の拠り所を失っていたローズマリーは、悪魔崇拝という宗教的権威を受けることにより、心の平安を手に入れる。その際、ローズマリーが着用している服は青色である。これは伝統図像における聖母マリアと重なり(フイエ,2006年,9頁)、キリスト生誕のパロディとして、このシーンは演出されているのだ。

 

7.おわりに

 『ローズマリーの赤ちゃん』は、1960年代の時代の社会情勢を反映した映画である。化学薬品への恐怖や、女性運動の盛り上がりなど、そして、当時のキリスト教観も反映されている。当時のキリスト教観を知る手掛かりとしてコックスの『世俗都市』を利用した。世俗当時の都市の特徴と比べることにより、悪魔崇拝者たちの前時代性が浮かび上がった。これは、作品の全体のテーマである家父長制社会によって子供を産む道具となる女性といった部分や、科学への不信といったテーマとも呼応するだろう。

 

参考文献

アイラ・レヴィンローズマリーの赤ちゃん高橋泰邦訳、ハヤカワ文庫、1972年

・木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教 120年の関係史』キリスト新聞社、2016年

笹田直人・堀真理子・外岡尚美編『概説 アメリカ文化史』ミネルヴァ書房、2002年

・デヴィッド・J・スカル『モンスター・ショー 怪奇映画の文化史』栩木玲子訳、1998年

・ハーヴィー・コックス『世俗都市 神学的展望における世俗化と都市化』塩月賢太郎訳、1967年

・ミシェル・フイエ『キリスト教シンボル事典』武藤隆史訳、文庫クセジュ、2006年

ロマン・ポランスキー監督『ローズマリーの赤ちゃん』ミア・ファロウ,ジョン・カサヴ

ェテス,ルース・ゴードン他出演,1968年,パラマウント ,2019年