逃亡日記。

散歩と映画と本がすきだ。

日記「死ねばいいのにね」

2024年6月18日 火曜日 日記

 くそみたいな雨降りの今日は、なにもやる気こらず、寝転がることしかできない。そんなんじゃないかい?読者のみんな。だれも読みやしないし、自分のブログに誘導したいだけ奴らしか読者にいないのに、こんな風に語りかけたってしょうがないのは分かっている。だけど、寂しいから、今日は空気は湿気ているし、湿っぽい気分になってもいいじゃないか。

 それにしても「上半期をふりかえろう👀」なんて言われたって、糞して寝てただけだから、振り返るも糞もないよ、はてなブログさん。ほんと無意味な半年だった。メンタルをやられて、しょぼくれて、糸くずみたいになった上半期。おれは復活するために本と映画を見まくったけれど何の意味もなかったよ。

 なにかエネルギーを掻き立てられるような、夢中になれるようなことをしたい。具体的な目標を立てられないから、意味がないんだけど。おれは無理だ。なにもかも。支離滅裂なことしか言えない。

 死ねばいいのにね。

日記「じめりとした夜を過ごす」

2024年6月15日 土曜日 日記

 もう6月が半月過ぎたことにうんざりする。そして、もう今年は、あと半年しかないということにもうんざりする。

 この半年間、わたしは、なにをしてきたのか。ただ「うんざり」してきただけだ。バカみたいに。

 社会にうんざり、自分にうんざり、天気にうんざり、なにもかもにうんざりするばかり。

 生きていることにうんざりする。そんなことばかりに、頭のエネルギーを取られている。

 しかし、いい加減にシャキッとしなければ。もっと前を向き、後ろばかり向かないで生きていけたら。そしたら、どんなに有意義な時間を過ごせることだろう。

 生きることなんて、死ぬまでの時間つぶすこと。そんなことをいう奴がいる。ケッと唾を吐き捨てながら、もし人生が暇つぶしなら、うんざりすることに時間を使うなんて、ものすごくもったいないと思う。

 前向きに生きていけたら。ありきたりな言葉による、ありきたりな前向きさ。そんな陳腐な前向きさでもいいからと、自分に言い聞かせて、じめりとした夜を過ごす。

日記「雀」

2024年6月14日 金曜日 日記

 早朝、雨が降っている、と思ったら、屋根でスズメが跳ねていただけだった。ちゅんちゅら言いながら、トタン屋根をタンタン跳ねていた。こっちは豪雨かと思って、憂鬱になっていたが、そうではなかった。焼き鳥が食べたい。

 顔の見えぬだれかに書いているこのブログ。またしても、よくわからない読者が増えている。ほとんどは自分のページに誘導したいだけの野郎(「にしの」おれはプログラミングなどやらん。今すぐ読者登録はずしてほしい)しかいない。

 そんな愚痴はどうでもいい。話は雀だ、そして映画『宇宙探索編集部』だ。この映画、前から観たいと思っていたが、やっとこさ観ることができた。

 おもしろかった。とてもいい映画。ニコニコしながら観れますね。

監督のコン・ダーシャンは、この映画が長編初監督となる。

youtu.be

 舞台は中国。廃刊寸前の雑誌『宇宙探索編集部』の編集長タンが主人公だ。この雑誌、30年前はUFOブームに乗っかって(実際に中国で1980年代に宇宙ブームがあった)、飛ぶように売れていた雑誌だったが、いまは電気代さえもはらえず、編集部の暖房すら止められる始末。そんなときに、舞い込んだのは中国西部に宇宙人が現れたという情報。編集長タンは、編集部仲間と雑誌のファンである二人の男女を連れて、西へと向かう。西遊記のように。

 「わたしもこういう映画を撮りたい」と思うときがある。この映画を観た時もそうだった。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た時も。映画を撮っていて、とても楽しそうだと思うから。作り手の映画を撮る楽しさみたいなものが溢れていて、それだけで観ていてウキウキさせられる。この映画には、そういう楽しさがある。

 それもそうかもしれない。この映画、学生の卒業制作として撮られたそうだ。学生とは言っても、短編映画などをすでに撮っていて、しっかりと評価されている監督の作品だ。とはいえ、なんとも学生映画らしい。この学生映画らしいというのは、要は青春なんだと思う。そして青春というのは、捕らえられそうにない壮大なものを求めることだと思う。UFOを探し求めるこの映画にはそういう青春な香りがあった。

 鍵となる登場人物であるスンという鍋を被った男がいる。この男、孤児で両親がいないため、村全体で面倒をみている。村内放送という仕事をもらい、自分の書いた詩などを放送している。この詩がとても感動的なものへとラストにつながっていくのだが、この村全体でひとりの変わり者の孤児の面倒をみるという共同体のシステムがとてもいいなと思った。変わり者とされても排除することはなく、村での居場所を与えてあげるというところはやさしい。わたしには居場所がない。

 そして、そのスンが落ち目の編集長タンを救ってくれるのである。それはUFOという存在がいるのかいないのかということではなく、自分たちがなぜ存在しているのか、という意味を追求するのだ。

 UFOといういかがわしい響きもつこの事象を追い求めること。それはムダと切り捨てられることではない。それの事象に追い求めること、フランクな言い方をすれば、なにかにハマるということ、誰かを「推す」ということは、その対象がいかにくだらないことであろうが、そのときにだれかが救われることだってある。そして、この世界に無駄なものはない。この世界を構成するものは、すべてに意味がある。そういってくれるようなあたたかな映画だった。

 

 

日記「空気には味がある」

2024年6月12日 水曜日 日記

 なにか思いつくままにかいてみようと思った。なにを話そう。さっきまではてなブログやnoteなどを斜め読みして、面白い記事がないか探していた。

 しかし、わたしも含めて、素人の書いた文章は面白くない。わたしの17人いる読者もほとんどがわたしの文章を読んでいない。面白くないしね。だったら、読者になんかなるなよ、インプレゾンビども。この文章はただ自己満足をしているだけ。しかし、すこしは感動させられるようなものを、ハッとさせられるようなものを書いてみたいなんて思っている。

 それにしても、なぜ文章を書きたいのだろう。だれかと思いを共有したい、というのは否定したい。しかし、少なからずあるとは思う。しかし、共有したり、繋がったりすることはめんどくさいことでもある。それでも誰かに向けて、顔のみえないだれかに向けて書いている。

 わたしの生まれた土地は、寂れた観光地だった。大きな湖があった。海と錯覚してしまうような綺麗に輝く水面をもつ湖だ。その湖からすこし内陸に入った場所にわたしの生家はある。家の裏手には、山の頂上へと続く道があった。山には峰に沿って送電線があって、その点検をするための道だった。その道の途中には、ため池があり、農業用水として使っていた。そして、さらに上へ進めば、いまは使われていない水道を管理する小屋があった。

 わたしたち、村のこどもたちはその道を登り、鬼ごっこや缶蹴りなどをしたものだった。クマよけだと言って、大きな声でクラスメイトの悪口を言いながら、山道を登った。家にいることよりも山で遊ぶことのほうが多い幼少期だった。

 そして、わたしたちは、村のなかを探索する。凶暴な犬猫、猪やハクビシンなどが、わたしたちの前に現れたりしたことを覚えている。だが、もうみんな、村の中を探検した仲間たちは都会に行って、若者はほとんどいない。村には年寄りばかりがいつまでもいつまでも取り残されている。

 村社会というのは、ほんというに嫌なところしかない。自然豊かな土地であり、そこはとても気に入っている故郷だが、村社会の気持ち悪さには、うんざりさせられる。相互監視の気持ち悪さ。話のネタは人の噂。気持ちが悪くて吐き気がする。美しい森、美しい湖があっても、人が美しいわけではない。ゲジゲジのような人間が村に取り残されている。

 わたしは、そこから抜け出し、今は地方都市で暮らす。ビル、マンション、アスファルト。自然とは程遠い。ときたま、恋しくなる。あの空気の味が。たまに故郷に帰れば、いちばん違うのは空気だ。冬は研ぎ澄まされたキレのある空気。春は甘い。空気に味があると思う。都会の空気とは違うのだ。それが、ときに猛烈に懐かしくなる。恋しくなる。そして、それを思い返して、この文章を書いている。

日記「とりあえず、駆け出したい」

2024年6月11日 火曜日 日記

 とりあえず、駆け出したいと思った。わけのわからぬ、ぐわっと湧き出るようなエネルギーを感じて、なにか行動を起こさねばと思い、とりあえず、外へ出るが、行きたいところもなく、行かねばならぬところもなく、ただ街を彷徨い、結局、辿り着くのが、書店だったということが何度かあった。

 

 定期的くるこの感情「何かわからないが、動いていたい」という衝動をどうにか制御したいのだが、なかなか難しい。思い返せば、高校生だったころ、この衝動を感じたわたしは、自転車に飛び乗り、片道10キロ近くある山道を登り、山間にある美術館に行ったことがある。そのとき、美術館は冬季休業中とやらで、入場することもできず、また10キロの山道を下り、家に戻ったときには、脚が疲れ果て、痙攣を起こして、立ち上がることさえ出来なかった。

 

 また、あるときは、高校の教師に「馬鹿野郎」と言い放ち、高校を飛び出したが、根っからの小心者ゆえに、警察に通報されたらどうしよう、捜索願いを出されたらどうしようなどと考え、コンビニエンスストアに立ち寄り、電話を借りて、担任に電話をして「今日は帰ります」などと言い、これで捜索願いは出されぬだろうと安心したが、着の身着のまま飛び出したゆえに、財布も携帯ももっておらず、家までの30キロの道のりを歩いて帰ることになったが、そのときも、やはりあの衝動が根底にはあった。

 

 そして、またあるときは、などと重ねてもしょうがあるまい。いまのわたしは、とりあえず顔もわからぬだれかに向けてこうして書くことによって、気持ちを抑えている。

日記「不安は魂を食いつくす」

2024年6月10日 月曜日 日記

 映画『不安は魂を食いつくす』は、人生のベスト映画に入れたい。最期は、この映画を観ながら死にたいとさえ思う。年老いた掃除婦と移民労働者の愛を描くファスビンダーの傑作である。傑作なんてわたしが言わなくてもいいが、やはり傑作と言いたい。何が何でも傑作だ。だれがなんと言おうが傑作だし、死ぬ前までに観たい映画だし、死ぬ前に観たい映画だ。

 『不安は魂を食いつくす』という題名は、素晴らしいと思う。もうわたしは食いつくされて、ずたぼろだ。そんなずたぼろの精神で読んだ本、それもまた傑作だった。

 アンナ・カヴァンアサイラム・ピース』である。 

 各話数頁しかないが、どれも閉塞感や不穏さが、満ちている。その密度が凄い小説なのだ。「不安は魂を食いつくす」というフレーズが合う本だった。

日記「本を読み、寝転んだ」

2024年6月5日 水曜日 日記

 グレアム・スウィフト(真野 泰 訳)『ウォーターランド』読了。

 まだ、わたしには読む資格がなかった。

 しかし、スウィフトの『最後の注文』を購入し、届くのを待っている。